ボランティアって大嫌い
私は福祉活動をしていますが、ボランティア活動家だと思っていません。
うまく説明できるかわからないけども、わたしの持論として思っている事です。
誰かの犠牲のもとに成り立つ福祉は大嫌いです。偽善くさいから。
例えば福祉イベントとか、福祉に関することで‥なんでもかんでもタダでやってあげる!タダでやってもらう!ただだから安かろ悪かろでいいとか。
ただなら行く(笑)
とか。
サポートした側が、今回一回きりならいいけど、次回も来年もとなったら困っちゃうという‥ボランティアした側のこぼれ話。
無料でやるかやらないかは、技術やサービス提供する側が心から無償で届けたいと思ってする事であったら。そのこぼれ話のような歪みが発生しないと思う。
例えば。光熱費、人件費、材料費、時間をかけて‥なにかを制作する福祉のイベント。
必要とした人件費は1人どころでなく、3名以上。
かかった材料費も赤字。
人件費大赤字。
そして、それを受けた人は、それを見た人は‥そんな犠牲のもとに提供されたイベントで何かを得られたのならば、それはまだ良いかもしれない。
今後に役立つ技術となったり。
何かを気づくとか知る喜びとなったり。
提供した側も心からやりたかった事への満足感や喜びがあり。
そして、受けた側も貴重な体験となったりしたらいいと思う。
でも。ただの時間とお金と労力の無駄だったらどうだろうか??
障害があるから仕方ないとか。
高齢だから仕方ないとか。
文化の違いだから仕方ないとか。
だから、やってあげる、今回だけ!
暇だからとか、やる事ないから(笑)。
わたしは
これ、もうめちゃくちゃ偏見!!
と思ってます。
つまり。
寄付金を求める時に。
寄付をつのる側が
『金額は100万円でお願いします』
と指定しているような事と大差なく思える。
余裕がありお金が沢山もっている人しか、寄付金を出来なくなる。
お金がなくても、今の自分にはこれくらいしか寄付できないけど、1000円でも届けたい、力になりたい!という寄付金をぞんざいな扱いをする事と同じような。
結構、福祉サービスを提供している側が、最高に差別した考えを強要する。
これ、ボランティアでサービスを提供を強要している事に表裏一体。
悲しいなと思っています。
だから、継続的に斬新な成長で広がらない福祉サービス。
わたしがハンディを抱えていたり、高齢であたまはシッカリしている状態だったら。無理して頑張ったボランティア行為や、自分の生活を犠牲にして無理した一回しかできないよのボランティア‥そんな誰かの犠牲や無理の思いのもとにある福祉サービス提供を申し訳なくて受けれないし。自身に哀れな、逃げたい気持ちになってしまうかもしれない。
そして、ボランティア受ける側も、お金払わないなら仕方ないからやってな貰うけど、お金払うなら絶対やってもらわない!とか。
ボランティア的な活動や行事で
これらは、実際に時々耳にしてしまう現実です。
これ凄まじい差別を感じるのです。
わたしには。
だからそんなボランティアは継続しないし。
循環しないし。
従事者も枯渇して。
誰もが羨むようは福祉の世界でないような感じます。
受け手としても、送り手としても、
心が晴れ渡らないからです。
それは持論です。
それを今日は書きたいと思います。
例えば、
高齢だからトイレの使い方が汚いとかいうのは、いえいえ、若くてもトイレ汚い使い方するの一緒ですよね。
障害がなくたって、高齢じゃなくても働けなくて困っている人もいます。嫌な事あればギャーぎゃーするひともいる。
聴覚障害なくても、ちゃんと聞かない人いるし。
視覚障害なくても、注意力散漫で何かにぶつかる人もいるし、見てない人もいる。
みんな同じですよ。
個性!!
完璧な人なんていないから。
持ちつ持たれつがいい。
男性だろうか女性だろうが、高齢だろうが若かろが、得意な事苦手な事がある。
社長だろうが、新入社員だろうが、出来る事と出来ない事がある。
出来る事でサポートしあう。
それも
WIN WINというのかな。
福祉的な活動だから、全てを無償でと強制したり。
新人だから、全てを無償でと強制したら。
新人はいつまでたっても育まれない。
新人は生活どうしたらいいんですか?
福祉の道で食べて行きたい人こそが、生活困窮者となってしまいませんか?
そして。その
歪みの狭間で悩み苦しむのは、
福祉サービスを受ける人だけではなく、サービスを提供する側にもあるこの現実を、
わたしはずっと身にしみて見てきた。
だから、
わたしは
新しい形で
共に豊かにある
福祉の世界をつくります。
そうゆう。
福祉の世界を創りたい。
その為には
生きる為の食べる物に対するを払拭できる農業技術。
それは、お金を生む事にもなり、センスや適性のある方には仕事となり。
そして!
働き、生きる為に最高に必要な事である、健康、美、痛みのない身体を、私の培ってきたボディケアワークで改善し保ち。
またこれも、センスや適性のある方には仕事としてもらい、お金を生む事に活かしてもらってもいい。
そして、言葉にならない想いや願いを身体を使って表現する、ジプシー達の叫びであるというフラメンコで発信し解放する快感を時には華として伝えたい。
フラメンコによる身体の怪我や故障なく、楽しみながら身体を使い、身体すらケアできるようにレッスンにも、わたしの独自のボディケアを織り交ぜながら提供しています。
これらのトータルした
集大成となる
福祉団体が
『入っている事を自慢となる福祉団体、羨ましいと言われる福祉団体』として、永続させます。